タイトル未定8

2019.11.10 Sunday 20:09
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    私が教団で、世界記録達成部というマラソンの部署にいたとき、同じ部署のCさんがこんなことを私に話したことがある。

     

    「尊師を載せた車が出て行った時ね、◯◯◯◯◯◯(彼女のホーリーネーム)が自転車で遊んでたんだけどね、◯◯◯◯◯◯ が自転車を必死に漕いで尊師の車を追いかけたんだ。それが本当にすごいスピードでね、さすが◯◯◯◯◯◯、尊師に対する帰依がすごいんだなあって思った」

    と。

    私は一瞬、「それって帰依なの?」って思ったけど、

    「へ〜そうなんだ〜(帰依のうちなのか〜)」

    と相槌を打った。

     

    私は最近、そのことをよく思い起こす。

    なぜかというと、そのことが、彼女が置かれた特殊な立場を実によく表していると思うからだ。

     

    もし仮に、元教祖の車を追いかけたのが、彼女ではなく、教祖が可愛がっていたポチという名の柴犬だったとしたらどうだろう?

    ポチがどれだけすごいスピードで車を追いかけたとしても、Cさんが、

    「ポチすごいね、尊師に帰依してるんだね。ポチ、さすがだね」

    とは言わなかったと思うのである。

     

    私は、自分の父親のことが幼少の頃から大好きだった。

    おそらく2〜3歳ぐらいの頃だと思うが、父のあとをヨチヨチ付いて追いかけた記憶が残っている。

    そしてもちろん、私がどれだけ必死に父親を追いかけても、誰もそれを「帰依」と呼ぶことなんてない。

     

    でも彼女が同じことをすると(彼女にとって教祖は自分の父親だ)、それは「帰依」という宗教的な意味に昇華されるのだ。

    これは本当にミラクルだ。

     

    教団から離れてかなり年月が経つので、帰依の宗教的な意味での定義について正確には覚えていないのだが、「自分の全てをゆだねる」みたいなニュアンスだったと思う。

    相手の事が大好きであれば、自分の全てをゆだねることにつながりやすくはなるので、教祖を大好きであることが、イコール帰依と言えなくもない。

    でも、教団内で「帰依」というのは、「努力して培うもの」と言われていた。

    例えば、修行を怠けたいなと思っても、「教祖から指示された瞑想だから、居眠りしないでやり遂げるぞ!それが帰依だ!」という風だ。

    でも、娘が自分の父親を大好きであることは、努力して培うものではない。

    だから、彼女が教祖を自転車で追いかけたことは、やっぱり帰依とは違うんじゃないかなって思うのだ。

     

    彼女は教団内で高い霊的ステージに達していると認定されていた。

    周りの人はバイアスがかかった状態で彼女の行動を評価していたのだ。

     

    そして、この「普通の日常的な行為」の「特別な宗教的な行為」への変換が、彼女について長い年月行われてきたのではないのではないかと私は思うのである。

     

    さらに、マスメディアの酷い報道により、その変換には別のバイアスも加わった。

     

    その結果、何が起きたか。

    彼女のやること、なすこと、本人の主観にかかわらず、内からも外からも、教団の活動と結び付けられてきたのではないかと思うのである。

     

     

     

     

     

     

    category:- | by:菊地直子 | - | -

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    2020.03.01 Sunday 20:09
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